CRIMSON Vol.46 |
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「お世話になりました。」
そう言って丁寧に頭を下げる目の前の白夜の姿が信じられなかった。
何を言われているのか、或いはこれは幻なのかとも思った程だ。すぐには現実が理解出来ず、驚愕の思いが
褐色の瞳を凍りつかせる。
「ど・・・・ういう・・・・・こと・・・・・?
秘書を・・・・辞めるつもりなのか・・・・・?なあ・・・・白夜・・・・・・・お世話になりましたって・・・・・
明日の朝・・・暇するって・・・・・・
どういうこと・・・・・・?」
まるで機械仕掛けの人形のように、右から左へと通り抜けていった言葉をそのままに復唱する、、、、
真っ青になった顔色からは相当の衝撃の様子がありありと見てとれた。
白夜はほんの僅かに瞳を顰めると、それでも辛そうにしながら言葉を吐き出した。
「おっしゃる通りです紅月様、、、、、
秘書の役を降ろさせていただくことになりました、、、、、
今日限りで、、、、あなたの秘書を、、、、、」
「きょ、今日限りって・・・・・」
「はい、、、、、
我が侭を申し上げて誠に恐縮でございます。けれども私には、、、、、っ」
白夜は一瞬語尾を強めると、だがすぐに落ち着きを取り戻すように拳を握り締めながら低い声で呟いた。
「今日限りで、、、、
けれども、、、、今日だけは、、、、、
まだ今日一日はあなたの秘書です、、、、、もしも、、、っ
もしも何か御用がございましたら何なりとお申し付けください、、、、
私に出来る限りのことを精一杯お仕えさせていただきたいと思います、、、、、」
そう言うと更に低く頭を下げた。
「では、、、失礼致します、、、、、自室に居りますゆえ御用の際は何なりと、、、、」
そんな言葉が、
そんな仕草が、
白夜の行動ひとつひとつが信じられなかった。
あまりにも急な辞職の知らせ。そしてあまりにも一方的な成り行きに、紅月の心中はぐらぐらと揺れていた。
信じがたい程の衝撃が全身を押し包み・・・・・
「ど・・・・うして・・・・・・・?
どうして白夜・・・・・・・こんな・・・・・・一方的過ぎる・・・・・・・・・
僕に何も云わないで・・・・・相談のひとつも無しに・・・・・
酷いよ・・・・・
いきなり辞めるだなんて・・・・聞かされて・・・・・
何て言っていいかなんか解るわけないじゃないかっ・・・・・・
辞めたいなら・・・辞めたいって・・・・どうしてもっと前に言わないんだっ・・・・・」
そんなふうにして無意識に思いを言葉に出していくうちに、次第に沸き上がった怒りのような感情に
紅月はカッと頬を染めると、一目散に部屋を飛び出して行った。
まるで気が違ったかのように駐車場へと駆け下りて、乱暴に車に乗り込むと猛スピードで車庫を出て行った。
苛々とした気持ちが止め処なく湧き上がる、
無謀とも思えるような運転をしながら暮れはじめた高速を思い切り突っ走った。
無意識に涙が頬を伝い、目の前が見えなくなって。
そうしていつものドライブコース、港を見下ろす公園に辿り着くとハンドルにしがみ付きながら
声を上げて泣き崩れた。
泣く理由など無かった。
自分は現在は幸せで、、、、、
最も愛する弟、紫月との想いを確かめ合い愛し合っていて、、、、
過日自分を酷い目に遭わせた男など、どうなっても関係ないはずだった。
むしろ辞めて出て行ってくれることはこれ以上ないくらい好都合なはずなのに、、、、!
溢れ出る涙はどうしてか止め処なかったのだ。
悲しかったわけじゃない、、、、
苦しかったわけでも、、、、
ただ、、、、
悔しいんだっ、、、、
悔しくて悔しくて仕方なかった。
今まで忠実に自分の下で従って来たその彼が、ひと言の相談も無しに人生を転換してしまうことが
悔しくて。
自分は白夜にとってたったそれだけの存在でしかなかったのだと、見せ付けられたようで怖かった。
社長などとは名ばかりで、本当はさして重要でもないと、そう突きつけられているようで。
何よりも紅月にとって衝撃だったのは、白夜が自分を必要としていると思っていたことを
いともあっさりと覆されたようにも感じられたことだった。
それは言うなれば、白夜を必要としていたのは他でもない自分の方なのだという事実をも示唆するようで。
紅月は泣いた。
声を上げて力の限り泣きじゃくり、、、、、
だがこれ程までに涙が止まらないのはただ悔しいという気持ちだけではないことに、当の本人も
未だ気付いてはいなかった。
白夜を目にすると不本意にも沸き上がる欲望−−−−−
悔しさと衝撃に紛れてほんのひととき忘れてはいたが、その感情がいったいどこから来ているのか気付かずに
いられる間は、それでもまだ救いであった。
いずれ訪れる、それらの微妙な心の移り変わりのすべてを認識してしまうときの、決して拭いきれないだろう
苦悩を緩和するかのように、このときの紅月はまだ少しの安堵の中にいた。
心の奥深く眠る自身の本当に気持ちに気付くまでは、、、、
もうさして時間はかからない・・・・・・
そんなふうにして紅月がドライブから戻ったのは、もうささやかな別れの夕食会もすっかりと終わった
夜も更けた頃だった。
空には十三夜の月が煌々と輝くその時分。
重たい足を引き摺りながら無意識に向かったのは他でもない、白夜の部屋であった。
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