CRIMSON Vol.52
紫月が紅月に対して違和感を感じ始めて少し経った頃だった。

重い心を抱えながらそれでも仕事で離れていられるときだけは安堵感が訪れるようで、そんな感覚も又

紫月の心を更に重いものへと変えていった。次第に無口になり、覇気もなくなりながら帝斗の居る

プロダクションへと出掛けて行くこと自体も酷い憂鬱感となって紫月を押し包んでいた。

そんな様子に当の紅月は全く気付きもしないといったふうで、夜になれば一緒のベッドで同じことを

繰り返す。

罪悪感もなく、特に幸せだという感じもなく、ただ淡々と過ぎ行くときに身を任せているようで、

それは言うなれば紅月にも又不幸な毎日であった。



秘書の白夜が突然に辞めると言って自分の元を去った日から突如として感情を失くしたようになって

しまっていた。

いきなり秘書を辞めたいと言われたことがそれ程までにショックだった本当の原因さえも未だ気付かぬ

ままで、無感情のような日々を過ごしていた紅月にあきらかに感情が戻ったのは、

或る午後の出来事であった。

それは紫月が仕事に出掛けていた昼間のひととき、午後の休憩を楽しむ使用人たちの休憩室を

通り掛った際のことであった。

華やぐような会話とはしゃぎ声のようなものにふと気をとられて覗き込んだその部屋で、

自分の存在に気付いた執事の若林にうれしそうに声を掛けられて呼び止められたのだ。

「ああ坊ちゃま!丁度よかった、これをご覧ください。」

そう言って差し出された一通の手紙に見覚えのある文字が目に飛び込んできて紅月はハッと我に

返ったように足を留めた。





「これっ・・・・・・!?」





「そうです、白夜さんからお手紙が届きましてね。ご丁寧にこうして私たちにまでご挨拶の言葉を

くださったんですよ。

白夜さんが辞められてからもうひと月にもなるんですよね?お引越しも済んでお元気にお過ごしだとか。

近況が書かれてあります。 それに、、、ほら!

坊ちゃまにもよろしくって書かれてますよ?」

にっこりとうれしそうにしながら使用人仲間とそんな歓談に花を咲かせていた。





白夜−−−−−





その名が耳を掠めた瞬間からこのところ無感情だった紅月の瞳がビクリと反応して・・・・・・





「白夜からの・・・・・手紙だって?」

大きな瞳を見開きながら逸るように紅月はそう聞いた。

「ええほら。紅月様は如何お過ごしでしょうかって、坊ちゃまのことがたくさん書いてございます。

ご覧になりますか?」

にっこりとそう言うと、若林は手にしていた手紙をすっと紅月に差し出した。

「あ?ああ・・・・そう・・・・・・白夜・・・・元気なんだ・・・・・・」

思わず取り繕うにして平静さを保ちながらも紅月は少々震える手でその手紙を受け取ると、

「読んだら持って来るから」

そう言って若林ら使用人の部屋を後にした。



見慣れた文字、

3枚にも及ぶ厚い便箋の感覚が、

紅月の足取りを自然と足早に変えていく。

長い廊下を走るようにして辿り着いた自室で無意識に鍵までかけると、逸るように便箋を開いた。





−−−−−前略、

皆さまお変わりございませんでしょうか。先日は突然に勝手を致しまして誠に申し訳なく思っています。

お陰さまで無事引越しも済み、今の環境にもようやくと慣れて参りました。



そんなふうな内容が続いた後の最後のページに綴られた文字を待ち望むように瞳が追い掛ける。



紅月様はお元気でおられるでしょうか?

新しい秘書の方はお決まりになられたのですか?

突然に辞めてご迷惑を掛けたこと、申し訳なく思っています。

くれぐれもよろしくお伝えください−−−−−

そんな文字が瞳に飛び込んできて紅月はそのページだけを握り締めながら次第に高鳴る心臓の音に

僅かに頬さえも染めていた。



「白夜・・・・・・・・」



そして高鳴り出した胸を抑えるようにしながら確認したもの、

それは封筒の裏に書かれているはずの住所欄であった。



横浜市中区○X○X・・・・・・



その文字を見た瞬間に紅月の瞳はキラキラと輝き始めた。

頬を紅潮させ、瞳を生き生きと輝かせ、それはまるで春の息吹が躍動を始めるかのようでもあり

このところすべてのことに無感情で表情のなかったのことが嘘のようにも感じられる程であった。





横浜・・・・・・近いっ・・・・・・・・





そこに記された住所は一之宮財閥の社の方からは左程遠くない距離にあり、紅月にとっては難しい

場所では決してなかった。それどころかむしろ近辺の情景までもが浮かんでくるくらいの馴染みに

近い所と言った方が早いくらいだ。白夜と食事に訪れたこともあるだろうその町・・・・・・

紅月は身体中が火照ってくるような感覚に駆られながらふと手元の時計に目をやると、

何かを思いついたようにすぐさま外出の支度を始めたのだった。





3時・・・・・・・

今からなら充分夜までに帰って来れるっ・・・・・・





手早く支度を整え終わると急いで住所だけを書き写してもとの手紙を若林に返しに行った。

「坊ちゃま!?お出掛けになられるのですか?」

先程までとは別人のように息を弾ませている様子に若林は少々驚きながらそう声を掛けたが、

紅月はうれしそうににっこりと微笑むと、

「うん、急に友人と会うことになったんだ!さっき電話があって・・・・これから食事でもしようって。

今夜は少し遅くなるかも・・・・・

だから食事の支度はいらないからね。じゃあ行ってくるー!」

足早にうれしそうに手まで振りながら紅月は駐車場へと駆け下りて行った。

「お気をつけられて坊ちゃま!」

少々オロオロとした若林の見送る声でさえ心地よく紅月の耳を掠めては消える。

弾む心を抑えるように辿り着いた煉瓦造りの建物の、2階の窓に春風が揺らしているカーテンを

瞳に映したとき、紅潮していた頬が更に熟れる程真っ赤に染まった。



じっと唯ひとつの窓を見上げる瞳はキラキラと輝いて−−−−−

ふいと動いたカーテン越しに僅かな人影がうごめく、

綺麗な形の長い指先が揺れるカーテンを捉えれば見慣れた存在がひょっこりと顔を現した。








白夜っ−−−−−








思わずそう叫びそうになって紅月は窓を見上げたまま、ときがとまったように動けなくなってしまった。