蒼の国-悠久の丘で- |
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江東に白花の舞い散る季節が過ぎて青葉が美しく彩り始めた頃、呉国君主、孫堅文台は
隣国周りを終えて久し振りに館に戻って来た。
一緒に旅に連れて行った孫策の弟、孫権仲謀はこの旅で父親の元にぴったりと付いて色々なことを学んだようで
少し大人になったように感じられた。
君主の帰りを皆が一斉に出迎えて館前の石畳は久し振りに色とりどりに賑やかさを映し出していた。
出迎えの列の一番先の石段を登り終えたところに孫策はいた。
傍らに倫周を従えて、その瞳はじっと父、孫堅を見つめ何かの決意を表しているかのようだった。
「策、留守番役ご苦労であったな。」
そう声を掛けたが孫策は跪いたままじっとしている。
しばらくしてくっと顔を上げると決意のある瞳が孫堅を見つめた。
「父上、、、」
孫策の瞳が何かを訴えてくるようで孫堅はふと首を傾げた。側には黙ったまま倫周が跪いて
下を向いていた。
孫堅はこの倫周のことも気に掛かっていてしばらく会えなかったので又寂しい思いをしているのではないかと
気に掛けていたのだった。それ故 自分が戻ったらきっと待ち焦がれたように明るい表情で
飛び込んでくるだろうと思っていた。
だが予想とは少々違ったようで倫周はおとなしく孫策の側で顔も上げずに跪いたままだった。
息子の瞳は困惑のような重っ苦しいものを映し出し自分を見つめてくる。
孫堅は何かに気付いたようにはっと瞳を見開くと、すぐに目を細めて話し掛けた。
「策、後で悠久の丘に来なさい。少し、話すとしよう。」
そう言うとゆっくりと館の中へ馬を進めて行った。その後ろ姿を見送りながら倫周はそっと孫策の
着物の端をつかんだ。
「何、お前が心配することはねえってよ。」
そう言ったが、孫策の瞳にもやはり戸惑いの色が浮かんでいた。
夕刻になって孫堅の帰館の宴の準備に人々が慌しく行きかう賑やかな気配を遠くに感じながら
孫策は父 孫堅を丘の上で待っていた。
この丘は孫策にとっては特別な丘だった。
長子だった自分が何かに行き詰まった時や何かの節目の時には必ずここで父孫堅と心の内を
話し合った場所であったのだ。父がこの丘を指定してきたということはやはり自分の様子が普通でないことが
何となく伝わったのだろうと孫策は思っていた。
ゆっくりと背後に父の気配を感じて孫策は瞳を閉じた。
しばらくそうしていたが何かを決意したようにかっと瞳を見開くと父を振り返らずに遠くの景色を
見下ろしながら話し出した。
「俺は倫周を愛してしまった。今あいつは俺の側にいるんだ。」
それだけ言うとやっと後ろを振り返って父の顔を見た。
「親父、俺はっ、、、」
振り返りざまにそう言って言葉を詰まらせた孫策に孫堅はやさしく目を細めた。
「策、お前はきっといい君主になれるな。」
一瞬、言われていることがわからずに孫策はくりくりと瞳を見開いた。そんな様子をやさしげな瞳で
見つめながら孫堅は話し始めた。
「お前はとても男らしくて元気のある良い子だったがね、けれどひとつ心配があったんだ。
お前のその曲がったことが嫌いな真っ直ぐな性格はとても素晴らしいことなのだけれど、いずれ
一つの国を預かる者としてひとつ大事なことが欠けているような気がしてね、それは人を思いやる心だ。
世の中には色々な人々がいるだろう?お前のような明るい子もいればそうでない子もいる。
幸せの多い者もいれば辛いことの多い者だっている。色々な人の気持ちを理解してあげることが
出来て初めて国を預かるに必要な大きさや温かさが生まれてくるのだと、それをお前にどう伝えようかと
私はいつも考えていたんだ。
お前にはおよそ不幸なことの多い人々の気持ちを理解するのは難しいんじゃないかと思っていてね。
お前は何不自由なく育ったわけだし、だが幸薄い育ち方をてきた者だって多いということを
どう教えようかと思っていた。だがもうそんな心配は必要なかったようだね。」
孫堅はそっと振り返ると息子を見つめて目を細めた。
「あの子の気持ちを理解してあげられたのならもう大丈夫だ、私が心配することは何もないよ。」
そう言ってやさしく微笑んだ。
孫策は驚きとも何ともつかない表情でしばらくは瞳を見開いたままその場に立ち尽くしてしまった。
そんな息子の様子に孫堅は微笑みながら語った。
「はははっ、、実は私も放って置けなかったんだよ、あの子があまりにも哀しそうな顔をしているもんでね。
いつも寂しそうに何かに耐えるように肩を抱えているあの子を放って置けなくてね。
だがお前が側にいるのならもう大丈夫だな、あの子だって私よりはお前の方が何かと話しやすいだろう。
これからも大切にしてやりなさい。」
そう言うと孫策の肩を抱いて館の方を振り返った。
「さあ、もう行こうか?皆が宴の用意をしてくれている。」
孫策はこくんと頷くといつもの元気のいい瞳が孫堅を見つめた。館に向かって歩き出した息子に
孫堅は自分だけに聴こえるような小さな声で呟いた。
「策、私はうれしいよ。これでいつでも安心して逝くことができる。お前はきっとこの国をもっともっと
発展させてくれるだろう。策、立派になったな、本当に、、、」
夕闇に浮かぶ松明の煌々とした灯りを見つめながら孫堅は息子より少し遅れて丘を後にした。
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