蒼の国-闇- |
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指示通りに弓隊に切り込んで、倫周は一つの怪我も負わずに見事敵大将を討ち取ることに成功した。
香港で鍛え上げた武術がこれ程までだとはさすがにビルらも圧倒されざるを得なかった。
いつもはふわふわと存在感の漂うような印象の彼のどこにそんな強い意志が秘められているのか
はっきり言って不思議としかいいようがないとビルは言った。
こうして尋常でない数の弓隊を始末することによって後方からの呉軍の進軍は可能となった。
孫策は焦る心を一生懸命沈めながら軍を進めたがその心意気あってかそこから先は意外に
苦を強いられずに勝機をつかむことが出来た。
非常に短い期間で今回攻め入って来た魏軍を退けたことで呉蜀はしばし安堵の中にあった。
だが魏軍が撤退したに関わらず未だに誰一人として戻らない蒼国の面々に孫策はじめ呉軍の
人々の心は揺らいでいた。
「何故戻らないっ!?仮に怪我を負ったとしてもだ、、誰一人戻らないというのはどう考えたって変であろう?
大体っ、粟津たち、前線を避けて行った者までが戻らないというのはどういうことだっ、
まさか皆死んでしまったとでも言うのかっ、、、?」
始めは倫周のことで頭が一杯だった孫策も次第にその同行が気になり始め、終いには誰か一人でも
生きて戻ってその様を知りたいというように追い詰められる日々が訪れていた。
「考えられるのは、、、もしも皆さんが生きていたとして、考えられるのはひとつ、、、
捕虜にされてしまったということです。確かにあれだけの腕の達つ方々が誰一人還らないというのは
やはり変ですし、もしかしたら亡くなったというよりは捕虜にされた、と考えた方が妥当ではないでしょうか?」
若いが落ち着いた感じでそう言う陸遜に孫策らもそんな疑惑が強く浮かぶようになっていた。
捕虜だと、、、?
皆して捕まってしまったというのか?
あんなに腕の達つあいつらが?
しかしこれは戦なんだ、あの時粟津が言ったように。ならばいくら腕が達とうがそんなことは
関係ないのではないか?もしかしたら全員死んでしまったとて不思議ではない、、、
たとえ生きて捕虜になっていたとして、、今頃どんな目に遭わされていることやら、、、
孫策はひと時もそのことが頭から離れることが無かった。倫周が捕虜として酷い目に遭っていないか、
怪我はしていないか、誰か仲間は生きて倫周の側に居るのだろうか、もしも魏の誰かに
気に入られて想い者になんかされているんじゃないか、と考えれば考える程胸は痛み、終いには
気が変になりそうな位追い詰められてしまっていた。
そんな様子に周瑜もいたく心配し毎日側について慰めていたが、そんな折、孫策にとって最も
不幸な事件は突然にやって来た。
父親孫堅が敵対していた将の計略に嵌り亡くなった、との知らせが届いたのは倫周らの行方が
わからなくなってふた月も経った頃のことだった。
「親父が、、?親父が亡くなっただと、、、?なっ、、、どうしてっ!?何故なんだ!?
あれだけの護衛に守られていて?どうして、、、なんでこんな、、、」
後はもう言葉にならなかった。倫周らは戻らない、父親は小敵の罠に落ちて亡くなる、たて続けに
孫策を襲ったこれらの事件は通常の理解を遙かに超えた結果だった。
只でさえ心配で頭が変になりそうな中、突然訪れた父親の死とその後を継いで早急に一刻の主と
成らざるを得なくなった環境にすぐには頭の整理がつくはずも無く、それでも待ってくれない時の流れに
孫策は父の葬儀に慌しい日々を送っていた。
それでも若い孫策の思考は柔軟だったといえるのか、葬儀を立派に終えた頃にはこの父を陥れた
敵将への復讐にも余念がなかった。
真っ直ぐに前を見て進んで行けるその強さと変わらぬ直向さに人々はこの若き君主を太陽の如くと譬えた。
只やはり曹軍との戦以来、未だ自身の下に戻らない倫周にその心をいつも憂いでいっぱいにしていたのは
紛れも無い事実であった。いくら孫策が前向きな性格であったとしてもやはり人々を引っ張っていく為に
自分を無理に明るく演じてきたこのところの疲れもあってかその心を平常に保つことにはいささか
代償が大きかったようで近頃では酒の力に頼らなくてはいられない夜が続いていた。
周瑜はそんな君主を心から心配し出来る限りのことはしたし、何より片時も離れずといっていい程
その傍らに控えていた。
そんな周瑜の心使いに孫策はいたく救われてきたといっても過言ではなかった。
幼い頃から一緒にいたこの周瑜があってこそ孫策の太陽の如くと譬えられた人柄は形成されていたのであろう。
いつものように酒を入れてもどうにも眠れずに嫌な胸騒ぎがして、遠くで倫周が自分を呼ぶような感覚に
囚われて孫策はふらふらと寝所を抜け出した。
満月が真上に降り注ぐ夜だった。
広い館の回廊で孫策は倫周の姿を見たような気がして矢も立てもたまらずにその後を追いかけた。
月明かりに照らし出されたその姿は髪の色こそ違えども愛する倫周にそっくりに映った。
きっと月光に染められたせいで髪の色が違って見えるのだと、或いは夢かとも思ったが
あまりにそっくりなその後ろ姿に孫策は側へ寄ると力一杯抱き締めてみた。
夢ならそれでもよい、たとえひとときの儚い夢だとしても孫策の心は倫周を求めて止まなかった。
「倫周っ、、、!」
もしかしてその腕に抱いた瞬間に消えてしまうかと思われたその姿は正に倫周そのもので孫策は
ためらわずに熱い抱擁をした。そしてその唇に触れようとした瞬間に、、、
「伯符、、、?」
聞こえてきたその声に孫策は はっと我に返った。
「お前っ、、、公瑾?公瑾じゃないか、、、」
やはり眠れずにふらりと外へ出た周瑜の後ろ姿を倫周と見間違えたのであった。孫策が倫周を
初めて見た日そのままに周瑜と倫周は面差しが本当によく似ていた。
「ああ、公瑾、、悪かった、、、驚かせちまったな、、、」
そう言って苦笑いをする若き君主に周瑜はその全てを理解したかのようにそっと孫策に近寄ると
やわらかくその胸に自身を預けた。
「公瑾!?」
突然の出来事に孫策は非常に驚いてすぐには何が起こったか理解できないといった感じだったが
周瑜はそんな様子に軽く微笑むと再びその身体を孫策に預けるようにして言った。
「伯符、今だけ、今だけ私を代わりにするといい。私を倫周だと思って、あなたの好きにしていいよ。」
突然にそんなことを言われて孫策は戸惑いの色を隠せなかったがしばらくすると自分の胸に寄り掛かっている
細い身体が正に倫周に思えてきてどきどきと鼓動が早くなるのを感じていた。
そっと視線を落として胸元に寄り掛かった白い頬に目をやる、、、
その面差しは誠、自分の愛する者に他ならなくて、、、
「倫周、、、?」
孫策は少し震える手でその白い頬に触れてみた、閉じられていた瞳がうっすらと開いてその様を
煌々と月明かりが照らし出す。
引き寄せられるように孫策はその唇に触れた。
軽く、最初は試すように軽くくちつ゛けては離し、又くちつ゛けて、、、
ぎゅっと、強い力で抱き締めた。強く抱き締めてその長い黒髪を掻き乱すように弄りながら何度も
くちつ゛けて。
荒くなった吐息を押さえ込むようにしながら孫策は言った。ぎゅっとその細い肩を抱き締めながら言った。
「ありがとう、、、公瑾、、、!」
周瑜は細い腕でしっかりと、自分よりも逞しい肩に手を廻しながら首を横に振った。
「伯符さま、、、」
そう呼びかけながら周瑜も又倫周のことを考えていた。
倫周よ、早く戻って、早くこの腕に抱き締められる日を待っているよ。伯符のこの腕は、ほら
こんなにもお前を求めている。だから早く戻っておいで。早く戻って伯符を安心させておくれ、、、!
まるで自身に呼びかけるように周瑜は心の中で倫周を呼んだ。
満月の月明かりが眩しい夜の回廊で、蒼い闇が2人を包んで、、、
2人は只抱きあったまま、しばらくそうして動かなかった。
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