蒼の国-朱雀の願い-
間もなく郭嘉率いる魏軍が呉軍の中枢地に向けて出陣を開始した。

呉軍の主要戦力を叩いて一気に呉を攻め落としてしまう為に。

そうして何日もかかる出陣の道中も郭嘉は自身の幕舎で毎夜を倫周と共にした。

倫周にしてみればもうすぐ孫策と会えると思うと気持ちが急いて郭嘉の腕の中にいても上の空だった。



孫策、孫策、もうすぐ会える!会ってあなたの腕に抱きしめられるその瞬間がこんなにも待ち遠しい・・・

待っていて孫策、もうすぐ帰るから・・・!



倫周の気持ちを確かめた郭嘉にとって、もはや疑うものなど何も無かった。

この倫周のうれしそうな表情でさえ自分と一緒にいられることをこれ程までによろこんでいるのかと思えて

郭嘉は満足だった。

つくずく人の本心などわからないものである。疑って疑って、最後まで疑い続けたにも関わらず、

郭嘉はこのときの倫周の本心がまるで見抜けないでいた。

もしもこの時に、未だ郭嘉が倫周を疑い続けていられたならばこの後の自分の人生も

或いは 変わっていたかも知れなかったが運命は足早に近付いていた。

呉軍の中枢地まではもう僅かだった。間もなく郭嘉はその瞳に映すこととなる、

自分たちを待ち受けるおびただしい数の呉軍の迎撃を。そして最後まで疑い通せなかった倫周の本心を。





夜が明けて、このところずっと続いていた晴天がうそのように激しい雨が幕舎に打ち付けていた。

「もう今日は呉に入ろうというのに何て天気なんだ、、、まあ、仕方ない、ところで倫周、、、」

そう声を掛けたが。

いつもは必ず自分の傍らにいるはずの倫周の姿が見えない。

こんな雨の中を一体何処へ行ったのだろうと辺りを探し始めた郭嘉の耳をつんざくような声が響いてきた。



「郭嘉さまーっ!大変です郭嘉様っ!呉がっ呉軍がっ・・・大軍を率いて我々を向かえ討ちにーっ!」



「何だとっ!?」

「もう手遅れですっ、この先の丘を登りきった林の中に呉軍が伏兵しておりましてっ・・・

既に軍の半分が不意打ちに遭って壊滅状態ですっ・・・!ここはどうか郭嘉様だけでもこのままお引き返し

下さいませっ! 残った軍を率いてどうか魏へご帰還をっ、 お早くっ郭嘉様っ!」

郭嘉は目の前が真っ白になった。



ま  さか、 まさかそんなことが、、、



だが倫周もいない。

まさかと思いつつ郭嘉は意を決したように幕舎を出た。

勢いよく幕舎を出た瞬間、郭嘉の瞳に飛び込んできたもの、それは愛する倫周の姿だった。

「倫周っ!」

次の瞬間、降りしきる雨の中から一瞬ほっとした郭嘉の胸を貫いたもの、、、



倫周の背後から一本の矢が郭嘉の胸を貫いた。

その矢を放ったと思われる者が倫周の後ろから姿を現し、そっと隣りに並んだ。

倫周はその者と肩を並べながら哀しそうな表情を郭嘉に向けた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!?



郭嘉は胸に刺さった矢を引き抜くと雨の中に立ちすくむ倫周のところまでふらふらと歩み寄った。

「なぜ、だ、、、?なぜ、おまえ、が、、、倫、しゅう、、、!」

傷を押さえながらやっとの思いで倫周の着物の裾をつかむと 郭嘉は尋ねた。

「やはり、自分の、国、が、忘れられない、、の、か、、?だから、、わた、し、、を、、、」

郭嘉は倫周の肩に抱きつくような形で寄り掛かるとそのまま倫周を抱き締めた。

「なぜ、、?り、ん、、、しゅ、、、」

郭嘉の息が荒くなり非常に辛そうな様子が見て取れる。

だがどうしても理由が知りたいという必死の思いが伝わってきて倫周は郭嘉を抱き止めながら瞳を閉じた。



「許してください、郭嘉様。私にはあなたにお会いする前から、呉に愛する人が居りました。

私はその人を忘れたことは一度もなかったのです。彼は私を、心も身体も汚れ切ったこの私を、

初めて愛してくれた人でした。忘れることはできません。私は、、、、、

最初からあなたを騙して、ここまで来たのです。これが本当の私です。」



郭嘉は震えがきていた。

傷のせいと倫周の理由を聞いて全てが納得できた安心感からか、震える声で最後の言葉を云った。



「それは誰だ?その人はどのようにお前を愛してくれた?」



そう訊かれて倫周は正直に答える事をためらわなかった。

静かに倫周は唯一人の名を口にした。



「孫伯符様です。」



一瞬、郭嘉の驚きの表情を読み取る事ができた。2人は互いの肩に顔をのせていたのでその表情までは

実際に見る事ができなくてもその様子はっきりと伝わったのであった。

「孫、伯符、、、?

ああ、知っている、遠い日に、一度だけ、垣間見たことが、あった、、、太陽の、様、な、、瞳を、して、、、

きらきらと輝いていた、、、そう、か、お前は、孫伯符の、、そう、だった、、のか、、、」



ああやはりそうだったか、、、私がお前に持ち続けていた目に見えない不安は、やはりこういうこと

だったのだな。私は魏を出る最後までお前を信じ切れなかった。どんなにお前に心魅かれていても

どうしても拭いきれなかった不安はやはり正しかったのだ。軍師としての私の目に狂いはなかった、、、

だが私はこうなった今、不思議と幸せに思えるんだ。軍師として自分の気持ちを押し通して逝くよりも

一人の人間としてたった数日でもお前と向き合うことが出来てよかったと、何の疑いも躊躇いも無く

お前を愛したこの数日間は私にとってとても幸せなときだったと思えてならない。

人としてこんなにも自分に素直になれた楽な日々を最期に手にすることが出来て私は幸せだったと思える。



虚ろな目で空を見上げながら郭嘉は今までの人生を走馬灯のように映し出していた。



「お前のおかげだ、、倫、、しゅ、、私が人として逝けるのは、、お前と出会って、お前を愛したから、、、」

そう言うとふうーっと大きなため息をついて、郭嘉は最期の力を振り絞るように云った。



「どう、か・・お前の、手、で・・・楽・・に、してく、れ・・・

けっきょく・・私は、月光のようにしか愛してやれなかった、おまえを太陽のよう・・に

照らして・・・やれたら・・倫、しゅ、どうからくに・・・」



郭嘉さま・・・!



倫周は郭嘉の胸に朱雀の剣を当てた。






どうか安らかに、この方に痛みを伴わず楽に天国に導いてくれるよう、

朱雀よ、我が願いを聞き届けよっ・・・!






ずるり、と郭嘉の身体が細い腕から滑り落ちて。

倫周はぎゅっと瞳を瞑った。側で見ていた蒼国の一同も瞼を閉じ、この気高き軍師に黙祷を捧げた。