蒼の国-哀しみの疑惑- |
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郭嘉は呉を一気に叩いてしまう事を考えていた。曹操からはそんなに慌てるなと言われていたが。
確かにあんな小さな国、放っておいても先は目に見えている。いや、だからこそ今潰してしまっても
よいのではないか、毎日その事で頭を一杯にしていた。
どうしたというのだ? この私が・・・
あの捕虜の帰る先を無くしてしまいたいと思うなんて。帰る国が無ければあの捕虜が私の元に
ずっといるなどと思ったわけではない。 だが、そう望んでいる自分がいるのも事実だ。
あの捕虜から全てを取り上げてしまいたい。過去の記憶も大切なものも生まれ育った国でさえ、
全て奪ってしまいたい。そしてあの捕虜自身も・・・!全て奪って私のものにしてしまえたら。
あの新月の夜から毎日のように倫周をその腕に抱いて、郭嘉は最後の迷いの中にいた。
あの日、その真意を探り出す為に倫周を室に呼びつけて恐らくは初めての体験であっただろう
その細い身体を自分のものにした。そうして郭嘉は倫周らに感じた何かの企みを暴くつもりでいたが
次第にその身体に魅入られてしまっていることに気付かざるを得なかった。
この美しい捕虜たちが初めから何か良からぬことを企んで魏に寝返ったことを郭嘉はずっと
疑って止まなかったのである。それは軍師としての本能だったのだろう、近頃ではもう誰も
疑うことのなくなった帝斗らのことに郭嘉の心は最後の迷いで揺れていた。
まだ昼間であったが人払いまでして郭嘉は倫周を自室に呼び寄せると、どうしても確かめたかった
そのことを訊くつもりであった。
倫周はあの夜以来、しばらくに渡って繰り返された郭嘉との逢瀬の中で次第にその身体を
開いてゆき、心も又しかりであるかのようだった。
明らかに自分を慕っている、そんな倫周の様子にも、どうしても信じ切れない何かを感じてそれを
確かめる為に郭嘉は倫周を呼び付けたのだった。
いつものように僅かに頬を染めて倫周が近寄って来る。
その様子に心を痛めながらもわざと冷やかな口調で郭嘉は言った。
「仲間を連れて国に帰るがよい。曹操様のお許しが出た。」
え・・・?
「あの、郭嘉さま・・・?」
言われたことがとっさには理解出来ないといったように倫周は不思議な表情で郭嘉を見上げた。
「聴こえなかったのか?仲間を連れて呉に帰れと申したのだ。」
「あの・・・それはどういう・・・」
さすがに内容は理解できたらしく倫周は戸惑いの表情を浮かべていたが、やがて震える声で訊いた。
「呉に、帰れとおっしゃるのですか・・・?」
「そうだ。晴れて国に帰れるのだ、うれしいであろう?」
そう言われて倫周はその立場を忘れて食って掛かるような瞳で郭嘉ににじり寄った。
「どっ・・どうしてっ!?郭嘉さまは私を・・っ・・・」
だがはっとすると がっくりと膝を落としながら寂しそうに言った。
「郭嘉さまがそうおっしゃるのでしたら・・・仰せの通りに・・・」
そう言って俯くとしばらくはそのまま動かなくなってしまった。
頭を下げて床に座り込んだまま 只じっと肩を震わせて。
「どうした?うれしくないのか?」
声を掛けられても黙ったままで、、、
「倫周・・・」
「郭嘉さまには私など必要ないのですね、、、」
ぽたぽたと何かが床に滴る音がして、ふいと引き上げられた顔は涙でぐっしょりと濡れていた。
その様子に郭嘉は心が乱れたが、同時に疑いの気持ちをも強くした。
もしこれが演技であるとしたならば、、、
倫周が幼い頃からの環境の中でそういったことに長けていたとするならばこの郭嘉とて又同じであった。
一人の人間としてこんなにもこの美しい捕虜に心を奪われながらも、軍師としての自分の見解をも又
捨て切ることが出来なかったのである。
だから郭嘉は迷っていた。一方では倫周に心を盗られながらももう一方では疑い続けて止まない
といったふうに2つの思いに心が揺らいでいた。
どちらを信じればよいのだろう?人としての自分の気持ちか、或いは軍師としての見解か、、、
出来れば郭嘉は揺れ動く2つの気持ちを一つにまとめてしまいたかった。
本当のところ、倫周を側から離したくはなかったし、だからこそ確かめたかったのだ、倫周の気持ちを確かめて、
軍師としての自分の疑いを消してしまいたかった。
倫周らは本当に初めから魏を陥れることなど微塵も思っていなく、本心から魏に寝返ったのだと
確信させて欲しくて郭嘉の心は揺れていた。
「何故そんなことを言う?お前は国に帰るよりも私の側にいたいと言うのか?」
「そんなこと・・・言わなくても分かって下さってると思っていました・・・でも、でも、それは
私の思い上がりだったのですね?やはり私は郭嘉さまにとっては只の遊び相手でしかなかったのですね・・・
それなのにわたしは勘違いして、少しでも想って下さってるなんていい気になって・・・
帰ります、呉に仲間と一緒に。 帰って・・・呉に・・帰れば・・・」
そこから先はもう言葉にならなかった、頬には大粒の涙がぼろぼろと零れてきて。
そんな様子に郭嘉の心も揺らされて。
もういいじゃないか、この捕虜がこんなことを言ってこんなに涙を流して哀しんでいる、それだけで
もう十分じゃないか?これ以上何を疑うことがあるというのだ?
こいつらは本当に見事に腕も達つ、このまま魏に残してこいつらを信じて仲間になってしまえば
それでいいじゃないか、こんなに疑ったところで只の私の思い過ごしかもしれないのだし、、、
そう、もうすべてを水に流して、、、
「倫周よ・・・私はお前を遊び相手だなどと思ってはいない・・・只・・只・・・っ・・」
郭嘉も又辛そうに顔を歪めながら言葉を詰まらせた。
「郭嘉さまぁっ・・・お側に置いてくださいっ・・・このままお側に・・」
倫周っ、、、!
あふれる気持ちを抑えて郭嘉は最後の問いを投げかけた。
「私は近いうちに呉に攻め入るつもりなのだ。そうすればお前とも一緒には居られまい。だから
今、帰れと申したのだ。所詮 私とお前は国が違う者どうし、敵どうしなのだ。私が呉を攻めれば
お前とて私の側には居られまい?どうだ?倫周、それでも私と生きたいと思うか?思うまい、
国を捨てるなんてそんなに簡単な事ではない。だから私は、、、」
倫周は激しく首を横に振った。
「いや・・・嫌だ・・いやっ・・・私は郭嘉さまのお側に居たいっ・・・
この国に生まれた人がうらやましい・・私もこの国に・・”魏”に生まれたかった・・・!」
倫周は震えながらそう言うと郭嘉の瞳を見て求めるように言った。
「私はこの国の人間になることも許されないのですか・・・?」
繭を顰めてその心を掻き毟られそうになりながら倫周の細い肩をつかむと、、、
郭嘉は自分に言い聞かせるように最後のひと言を投げかけた。
「ではお前は案内できるか?この私を、魏の軍を、呉の軍隊の中枢地まで。かつての仲間を
私に売れるか?」
これは郭嘉にとって最後の賭けであった。最後までこの捕虜を信じ切れなかった郭嘉の最後の。
これほどまでにこの捕虜に心魅かれながらも最後まで心のどこかで疑い続けた、軍師郭嘉としての
最後の答えを出す為の、質問であった。倫周はしばらく沈黙していた。
倫周よ、これにお前は何と答えてくるか?その答え如何によっては私はお前をこの手に入れることは
できぬかも知れない。私はお前をずっと疑ってきたのだ。一方ではお前にこんなにも心魅かれながら、
もう一方ではお前たち捕虜が何かを企んで私に近付いて来たのではないかと、ずっと葛藤していた。
結局、私はお前を信じる事が、お前に魅かれた自分だけを信じる事が出来なかったのだ。
哀しいまでに私は軍師であった。魏の軍師としてしか生きられないのだ。お前が偽りを言葉にすれば
私には解る。そうしたら私はお前を手放さねばなるまい。私には国を捨てて、この立場を捨ててまで
お前と生きる自信がないのだ。倫周、私はずるい人間だ。心のどこかでお前にはそれを望んでいる。
お前が呉を捨ててわたしと共に生きる事を、私のものになる事を。
倫周はまるで魂が抜けてしまったかのような瞳を郭嘉に向けると呆然とした様子で話し出した。
「仲間を、呉の軍を、裏切りたくはありません、、わたしには、そんなことはできません、、、たとえ
わたしが”魏”の人間だとしても、どんなにあなたの側にいたくても、、、同じ軍で共に戦った仲間を
見殺しにすることはできません。」
倫周が郭嘉を見上げる、その瞳からは生気が奪われてまるで感情が感じられなかった。
放心してしまう寸前のような表情を見せながら倫周はぽつり、ぽつりと呟いた。
「もしもわたしがわたしでなかったら、、わたしが全てを忘れてしまえたら、いいのです。郭嘉さま、、、
わたしは何者ですか、わたしはどこで生まれて何をしている者ですか、わたしは、、、
郭嘉さま、、、知っているのなら、おしえてください、、わたしは、、、」
「倫周・・!」
たまらずに郭嘉は倫周を抱き締めた。
倫周は放心する寸前のようであった。
無理矢理自分の過去の記憶を消してしまおうとしていた。そうまでして自分を慕ってくるこの倫周を
郭嘉はもう手放す事など出来なかった。
郭嘉は天を仰ぐようにして瞳を閉じると大声で答えた、しっかりと倫周に言い聞かせるように。
そして自身へも言い聞かせるように。
「倫周!お前は私のものだ!この郭嘉奉考の、ものだ!お前は此処で生まれた!お前は、、、
”魏”の柊倫周と申す者だ、、、!」
「魏・・・魏の、柊 りんしゅう・・わたしは、魏の・・・」
倫周の大きな瞳が空を見つめる。
ぼんやりと目線が漂う。
郭嘉は倫周を固く抱き締めながら言った。
「倫周、一緒に呉を攻めに出陣するぞっ、良いな・・・
無事にこの戦いに勝って共に魏に戻るのだ。私とお前の未来のために・・・!
わかるな?何があっても私について来い、何があっても私の側を離れるなっ、
よいなっ、倫周っ!」
倫周はこくりと頷いた。まるで無心といった表情で。
郭嘉は全てをもぎ取る様に夢中で倫周を抱いた。
これでお前は私のものだ!これからは何があってもお前を離しはしない!
この”魏”という大国の軍師の力を以って・・・!
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