蒼の国-月華- |
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月の満ちたその夜、倫周はたわいのない用事を装って郭嘉を訪ねた。
丁寧に面会を申し出て、郭嘉の室に通される途中、歩きながら見張りの数と位置を確認する。
新月の明日が決行の最善の日和であった。
何としてでも今夜中に明晩の決行の手はずを整えたいところである。
倫周は郭嘉の室に通されると帝斗からのたわいのない用事を報告した。
見事な程の月明かりに照らし出された庭先に目をやると、引き寄せられるように回廊へ出て空を見上げた。
「月が、、、見事ですね。」
そう言って空を仰ぐ、その姿はまるで儚げで消え入りそうな雰囲気に、郭嘉は初めてこの倫周を目にしたときのことを
思い浮かべていた。
美しく憂いを讃えたような空を漂う瞳、抱き締めれば壊れてしまいそうな細い身体、
そのどれをとっても拭いきれない妖しげな雰囲気が全身に纏わりついていて、、、
郭嘉にとってはこの倫周をはじめ、呉国から寝返って来たこれら捕虜たちの腕の達ち過ぎる様子からしてみても
明らかに彼らを信用出来てはいなかった。
この美しい捕虜とてきっと何か企みがあって自分を訪ねて来ていることは当然の如く見通していた。
「何を考えているのだ?」
穏やかな口調に反して氷のように冷やかな郭嘉の短い問いにふっと振り返ると大きな瞳を翳らせながら
倫周は首を横に振った。
「いいえ、何も、、、只 月が綺麗だと、、、」
嘘だ、、、お前のその瞳、明らかに何かを企んでいる、、、それが何なのか、はっきり訊いてやろうではないか、、、
郭嘉は、ずい、と倫周に近寄ると射る様な視線で彼を見つめた。
「では何をしに此処に来た?先程お前が言った用事、あんなことを伝える為にわざわざこの私に
時間をとらせたというのか?」
少々厳しく詰め寄って、郭嘉はその真意を探るように語尾を強くした。
え・・・・?
倫周は不思議そうに郭嘉を見上げるときょとんとしたような表情をしたが、すぐに怯えたようになって
「すみません・・もう帰ります」
と言った。
突然に詰め寄られてびくびくと肩をすぼめるように震えている。
慌てて帰ろうとした倫周を郭嘉は穏やかな言葉で引き止めた。
「待て・・・私が言い過ぎたようだ。よいからもう少しゆっくりとしていくといい。」
そう言って自国の酒を持ってきて倫周に杯を差し出した。
「ほら、結構いけるのだぞ?」
そう言うと今度はにこやかに微笑みさえ見せながら、まだびくびくとしている倫周に杯を勧めた。
誰がこのまま帰すものか、、馬鹿め、、、お前の真意はこれからゆっくり訊き出してやろうではないか、、、
ふい、と郭嘉は微笑んで、、、そんなことを思ったとき。
「よろしいのですかっ?本当に・・?」
少々声を弾ませて、先程までとは別人のような表情で倫周は郭嘉を見つめた。
そして差し出された杯をうれしそうに受け取るとまるで大事そうに両の手でしっかりと握り締めながら
一気にそれを飲み干した。
ぱあーっと表情が華やいで、先程までとはまるで違う子供のような笑みを郭嘉に向けると
一気に飲み干した酒のせいで赤く染まった頬を輝かせながらうれしそうにはしゃぎ出した。
「郭嘉さまっ、私は音楽もやっているんですよっ!皆と一緒に、とっても楽しくて、今度聞いて頂けますかっ?
それからねっ、呉にいたときは毎日馬小屋の掃除をさせられて、あれはちょっと辛かったなあ・・
でもここではそんなの無いんですよね?それだけだってうれしいなあ・・・」
突然にそんなことを言ってのけたこの倫周の豹変振りにはさすがに郭嘉は驚きを隠せなかった。
ちょっと詰め寄っただけでびくびくと怯えていた先程からの態度とはまるで逆の、正に別人のような有様に
冷やかだった瞳を顰めると郭嘉は首を傾げた。
何なんだ一体・・・
まるで真意が図りかねる・・・
そんなことを思っている郭嘉の様子に気付きもしない様子で倫周は又しても突飛なことを言ってのけた。
半ば戸惑いながら継ぎ足してやった酒をうれしそうに口にしながら今度は「郭嘉さまの御趣味は何ですか?」
などと訊いたのである。
その他に「お休みの日は何をして過ごすのか」とか、「遠乗りは好きか?」とかおよそどうでもいいようなことを
楽しそうに訊いてくる。
頬を真っ赤に染めながら、大きな瞳で恥ずかしそうに自分を見つめて、興味一杯にそんなことを訊いてくるその様子に
郭嘉はさすがに戸惑った。それはまるで自分に寄せられる憧れのような感を伴った視線に他ならないようで、
あまりに的外れな倫周の態度に少々考えあぐねていたとき。
「郭嘉さま・・・」
既に酒に酔ったとろんとした瞳を差し向けながら倫周は切なそうに郭嘉を見つめた。
そうして更に真っ赤に染まった頬をふいと近付けると郭嘉の胸元に持たれかけてきた。
なっ、、、!?
「何を、、っ、、、!?」
突然の出来事に慌てて立ち上がると郭嘉は険しい表情で倫周を突き放した。
「どういうつもりだっ!?」
厳しく問いただす郭嘉の様子にびくり、と肩を竦めると倫周は床に跪いて身を屈めてしまった。
やはり、、やはり何かを企んでいたのだな、、、まさかこの私を色仕掛けで陥れようとでもいうつもりかっ、、、
馬鹿めが、、、そんな手にこの私が引っ掛かるとでも思ったのか?この私が、、、この郭嘉奉考が、、、
「どういうつもりだと訊いているっ!言えないのかっ!?」
郭嘉は床に屈みこんだ倫周の身体を引き上げると厳しい口調で問いただした、そして
どんな芝居をして見せてもこの私は騙されないということをしかっりとその頭に叩き込んでやるつもりでいた。
だが倫周はそうされて急に泣き出したのである。
「ご・・めんなさい・・っ・・許してください・・・もう帰ります、もう帰りますからっ・・・」
大きな瞳を涙で一杯に潤ませながら慌てて戸口へ向かおうとした、そのとき。
慣れない酒を急に飲みすぎたせいかぐらりとその足元を取られると、ずるりとその場に崩れて落ちた。
それでも倫周の意識は必死に戸口の方向へ向かっているかのようで何かを探るように腕を伸ばしては
床を這いずってまで帰ろうとした。
そうしてようやくのこと立ち上がったもののやはり酔いは回っているらしくすぐに足を取られては
又床に崩れて落ちた。
思うように動けない、それが哀しかったのか大きな瞳からはますます大粒の涙が零れて落ちる。
そんな様子を郭嘉は黙って見ていたがさすがに痺れが切れたのか、そっと手を差し伸べると
その細い身体を引き上げた。
郭嘉に支えられてそれも又情けない、といったような表情をすると倫周はひとこと小さな呟くような声で謝った。
「ごめんなさい、私が調子に乗って・・・しまって・・あの・・」
涙でぐっしょりと汚れた顔で郭嘉を見つめると辛そうな表情をしながら言った。
「許してください、、本当は、こんな・・ところで・・こんな、こと・・できる、身分じゃない・・・のに・・
ほんとうに・・・もう、帰ります・・・!」
そう言ったけれど、もう定まらないような瞳が半分閉じられていてその様子からは相当に酔っ払っているのが窺えた。
支えられていた郭嘉の手を離れて再度戸口に向かおうとした瞬間、突然に身を屈めるとはっとしたように
自分の口元を押さえた。
「お、おい、、どうしたのだ、、?気分が悪いのか?」
それが演技なのか半分疑いの気持ちを持ちながらもそう尋ねて覗き込んだ顔が真っ青になっているのを見て
郭嘉は慌てて手を差し伸べた。
「おい、大丈夫か?苦しいのか?」
恐る恐る肩に手をまわしてやったが、、、
「気持ち・・・悪い・・・郭嘉さま・・・」
そう言って真っ青な顔色のまま郭嘉の腕に縋りついた。
「助けて・・郭嘉さま・・・気持ちが、、、悪い、、、」
そう言った瞬間、ずるりと床に倒れこんで、倫周はそのまま意識を失った。
仕方なく郭嘉は倫周を抱き上げると隣の自分の寝所に連れて行きそのまま寝かしつけてやりながら
先程までのことを思い起こしていた。
倫周がそっと自分の胸に寄り掛かってきたこと、突然にはしゃぎ出したこと、又突然に泣き出したことなどを
色々と思い浮かべてはその真意は何なのかと考えていた。
まだ蒼白い顔をしながら側に横たわるその顔に目をやると、郭嘉は深く溜息を付いた。
美しい、こいつを初めて見たとき正直そう思った。まるで創りもののような綺麗過ぎる顔立ちに
一瞬目を奪われたのは確かだ。 だがこいつらは明らかに何か怪しげな雰囲気を持っていて。
軍師としての私の目に狂いがなければ恐らくそれは確かであろう。
だが、もしも、、、
もし本当に他意が無いのだとしたら、、、?
こいつらの頭取、確か粟津といったか、、もしも彼らの言うことが本心なのだとしたら、、、
あれだけの腕をもった奴らのことだ、もしかしたら本当に呉に愛想を付かしたとてそれも又不思議では無い、
だがしかし、、、
そんなことを考えながらゆっくりと郭嘉は倫周の寝顔を見下ろした。
ふい、と蒼白い頬に手をやるとうっすらと付いた涙の後をなぞるように指を這わせた。
その指が形のいい唇に寄せられて、、、
しばらく指先でなぞっていたそれにふいに自分の顔を寄せるとそっとくちつ゛けた。
ふっくらとした感触にほんの一瞬甘やかな気持ちが湧きあがる、そんな感覚にさっと身体を放すと
郭嘉は自身の迷いを打ち消すかのように繭を顰めた。
夜が白々と明ける頃、倫周は意識を取り戻した。
側に人の気配はしないようで、そっと寝所を抜け出すと辺りを探すようにしながらふらふらと回廊の方へ歩いて行った。
明け始めた空の色を映してうっすらと蒼く染まる朝靄の中に郭嘉の姿を見つけて倫周は足を止めた。
ゆっくりと郭嘉が近付いて。
まだ繭を顰めたまま倫周を見下ろすとその白い頬に手をやった。
「具合はどうだ?」
そう声を掛けながらまだぼんやりとしている美しい顔を見つめた。
これは罠だ。けれど罠であるなら尚のこと、、、確かめられるか、確かめられないはずはない、
罠ならそれにはまってみるか?私を騙せるものならば、、、!
心がそう囁く。 郭嘉の心が 揺れて、、、
「今宵、、、今宵、誰に見つからずに此処に来れるか?人払いをしておく、闇が深くなる頃に
誰にも気付かれないように此処に、、、来い、、、」
「郭嘉さ、、ま、、?」
そっと触れていた白い頬を引き寄せると郭嘉は軽く倫周を抱き締めた。
「さあ、行け。護衛が起き出す前に。早く、、、」
無言のままこっくりと頷くとふらふらとその場を後にした。
蒼い朝靄に薄れ行くその姿を見送りながら郭嘉の心に一つの決意のようなものが沸きあがっていた。
美しいお前の仕掛けたこの罠を見破ることが出来るだろうか?昨夜からのお前の数々の行動、
それらはすべて疑いの色を濃く映し出していた、、、その真意が何なのか、、、
確かめられるか?今宵、闇が降りる頃、答えはこの手の中にあろう、、、
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