蒼の国-激情の一夜- |
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青葉の頃には戻るから、
そう言って呉国の君主、孫堅文台は大勢の共と息子の孫権仲謀を連れて館を後にした。
約ふた月に渡るであろう留守を任されたのは長子の孫策伯符であった。
倫周は本来は孫堅の護衛役の任務にあったが今回は孫堅自らの希望もあってこの旅には
同行しなかった。安心して旅が出来るように自分の留守の館に残り、若い孫策らの護衛を
頼まれたのであった。
倫周は表門のところまで孫堅に付き添い、見送るとその顔を見上げては寂しそう、とも
諦めともつかない表情をした。
「そんな顔をせずともすぐに帰ってくるよ。後は頼んだよ。」
やさしく目を細めると孫堅は馬上から倫周の頭をぽん、と撫でた。
「文台さま・・・・」
行ってらっしゃい、気をつけて・・・早く、早く戻って下さい。待っていますから、あなたが帰るその日を・・・
遠くなる一行を見送りながら寂しげに振り返ると倫周も又館に入っていった。
孫堅が旅立ってから倫周は孫策の側につき、剣の稽古をしたり狩りに付いて行ったりと、
野山の色付いた春の江東で平穏な日々を過ごしていた。
月の眩しい、風の速い夜であった。春を彩る大樹にまだ一部咲きの花が風に揺れていた。
先日目にした光景がどうしても頭から離れなくて、だがどうしても信じたくなくて、そんな迷いを
断ち切るために意を決して孫策は唯ひとつの場所に向かっていた。
倫周の室に、、、
「よ、、よう、、!こんな時間にすまねえな、、、」
少々照れくさそうにもじもじと戸口のところに立ち竦んでいると倫周は明るい様子で孫策を迎えてくれた。
こんな時間に共の一人も付けないで何の用事があるのだろう、などということは聞きもしなかったし、
又そんな素振りは微塵も見せずに心から喜んで迎え入れてくれた倫周の様子に
孫策はひとしきり胸のつかえがとれるような気がしていた。
やっぱりあれかな?この前のことは俺の見間違いだったかな?
笑ってそう言って欲しくて、知りませんよぉと明るく言って欲しくて、声を掛けた。
そして望んだ通りの答えを聞いて2人で笑い合って、そうしたら明日は又こいつを連れて狩りにでも出掛けよう!
そんな明るい想像までが浮かんできていたのに、、、
「なっ、倫周・・・お前はさあ、親父とは何んもねえよなぁ?あ、変なこと聞いて悪ィな・・
けどよ、どうしてもその・・気になってさ。俺この間見たんだ、親父の寝所でさ・・・
親父の相手がちょっとお前に似て見えたもんだからさぁ・・・まさか、だよなあ・・?
あ・・ごめんっ・・気ィ悪くすんなよ?きっと似たような女がいただけだろうからさ・・・・」
そう言い掛けて、何だかとんでもない侮辱の言葉を言ってしまったようで、少々後悔しかかったとき。
速い風が室の中にも吹き抜けて、点されていた蝋燭の灯りがふっ、と消えた。
蒼い闇の部屋の中に時折雲間から出る月明かりだけが差し込んだり消えたりして、、、
「ごめ、、っん、、、怒っっちまったか、、、?」
急に黙り込んでしまった倫周に少し気まずそうに話しかける孫策の瞳に、僅かに肩を震わせながら
ぎゅっと瞳を閉じて俯く姿が月明かりに照らし出されては、消えた、、、
「倫周、、、?なあ、、何で何も言わねえんだ、、、?怒ったのか、、?なあ、、、倫周、、、?」
がたがたと、風が戸を叩く音だけが響いて。
「まさか・・・だろ?なあ、倫周っ・・まさかだよなあっ・・・?」
お前、、なのか、、?ほんとにお前がっ、、親父と、、、あんな、あんな、、、、
「なあ倫周っ!?何か言えよっ、、、黙ってねえでっ、違うって言えよっ!」
たまらずに、どんっと卓を叩いて立ち上がると孫策は倫周の細い身体に詰め寄った。
「倫周・・・?なあ違うよな・・・?お前はあんなことしねえよな・・・?な・・・?」
吹き抜ける風の音と共に差し込んだ月の光に照らされて、僅かながら震える恐怖を映した大きな瞳が
孫策を苦しそうに見つめては 辛そうに歪んだ・・・
「なっ、、どうして、、、お前なのかっ、、、本当にお前が?」
何をしているかも解らずに気が付くと孫策は目の前の細い身体を突き飛ばしていた。
突き飛ばされて床に倒れ込んだ身体を引き上げては又叩き付けて、がんがんと力のままに
揺さぶり続けて、そして又叩き付け、突き飛ばし、、、
辺りにあった物が散乱する。物が落ちる音、陶器の割れる音、机のひっくり返る音などが蒼い
闇の中に木魂して、、、
「ふざけんなよっ、、、何でお前がっ、、お前がそんなことすんだよっ!?妾なら親父にはいくらだって
いるんだっ、、、何でお前がそんなこと、、、ふざけやがってっ、、この変態野郎っ、、、!」
がしゃーんっ、、、と大きな壷が割れる音がして、倫周は突き飛ばされた拍子にその上に転がり込んだ。
「ああっ、、、」
みるみると血が滲み出て、割れた陶器を踏みつけた肩から下、衣が真っ赤に染まる。
「ごめんなさいっ、、、孫策さまっ、、、孫策さま許して下さいっ、、、、」
左程広くない室の中はもうずたずたに荒らされて、孫策の怒りは治まることを知らなかった。
「嫌、、ごめんなさいっ、、ごめんなさ、、いっ、、、」
ひたすらに謝罪の言葉を繰り返すその細い身体を荒れた部屋中引き回して、殴りつけた。
突き飛ばしては又引き上げて、殴り飛ばしては又叩き付けて、荒がった心が我に返る頃、孫策の
衣にも又ところどころに血が滲み、両の手はべっとりと血のりで濡れていた。
「何をしているっ!?伯符っ!やめろっ、やめないかっ、、、!」
大きな声に驚愕の表情を映して周瑜がそこに立っていた。
大声を出されてはっと我に返った孫策の大きな瞳がぎろりと振り返ったとき、周瑜も又その場に
硬直して動けなくなってしまった。
尋常ではないその様子に孫策の側に仕えていた周泰が周瑜を呼びに来たのだ。
状況を聞いて周瑜は周泰と陸遜を伴い急ぎその場に駆けつけたのだけれど、余りの悲惨な様子に
しばらくは瞳を見開いたまま言葉も出なくなってしまったのだった。
又ひとしきり月が雲間から出て、荒らされたその室を照らし出す・・
「きゃあああああっ・・」
月光が映し出したその光景に耐え切れずに陸遜の悲鳴が響いた。
「孫策さまっ、、、酷いっ、、どうして?どうしてこんな、、、、っ、、、」
呆然と立ち尽くす孫策の傍らに身体中を血に染めた倫周が床に横たわっていた。
べっとりとどす黒い血のりがもう半分乾きだした倫周の額を包み込むようにして陸遜はその身を
覆うように身体を屈めた。
「酷い、、酷すぎますっ、、どうしてこんな、、孫策さまっ、、、!」
陸遜の叫びにようやくと恐る恐る歩き始めた周泰が同じように倫周の側へ寄りその身体を
抱き起こそうと陸遜と共に抱えあげたとき。
ぼつりと孫策は呟いた、まるで魂の抜けたような瞳を空に漂わせながら。
「だってよ・・・こいつがいけねえんだ、ぜ・・・こいつがあんなことすっから・・・よ・・・
俺は何も悪いことなんかしてねえよ・・・全部こいつが・・倫周が・・・」
そう言いながら空に漂っていたその瞳に次第に感情が戻ってきたとき、孫策は周瑜を見つめると
まるで助けて欲しいというように縋りつくような表情で叫び出した。
「こいつがいけねえんだっ、、こいつが穢した、、、こいつが俺の大事な親父を穢したんだっ、、、!
誘惑して、、親父を、、あんなこと言うなんて、、、親父があんなこと平気でうれしそうに言うなんてよ、、、
全部こいつがいけねえんだっ、こいつのせいで親父は、親父はぁっ、、、」
がっくりと、孫策は周瑜に縋りつくように膝を落とした。
人目も憚らずに苦しみを吐き出すように嗚咽して、、、
倫周を寝台に寝かせながらその様子を聞いていた周泰は突然にがたがたと震え出して。
「どうした?幼平、、、?」
周瑜に声を掛けられて、止まっていた視線が動く、孫策を振り返って、、、
「申し訳ありませんっ、、、孫策さまっ、、、あれは、あれは私が致したのですっ、、、
倫周さんを殿の寝所にお連れしたのは私なのでございます、、、、」
そう言って孫策の足元に駆け寄ると頭を床に擦り付けるようにして叫んだ。
何だ、、と、、、?
孫策の瞳が鋭い視線で周泰を射ったその直後に、周泰の口から飛び出した信じられないような言葉に
孫策は頭を殴られたようにその場にへたへたと崩れて落ちた。
あれは私が致したのでございます、倫周さんをお連れして、、、殿のご命令で、、、
殿のご命令で、、、、
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