夕暮れの街色
それから3週間くらいしたある日の午後、洸一の携帯に先日の画廊のオーナーから電話が入った。

急なことだが今日の夕方に例の絵の作家が来るという。

「もしご都合がよろしければと思いましてご連絡させて頂いたのですが、ええ、本当に急なことで

恐縮なんでございますが、うちは6時までは開けておりますのでもしよろしかったらお立ち寄り

下さいませ。では、お仕事中に恐れ入ります。」

そう言われて電話を切るか切らないうち、洸一の心はゴム鞠のように弾んで既に昇天気分だった。

その日の残りの仕事などぱっぱと方付けて、あまりの上機嫌な様子に後輩の女性社員からは

「今日はデートですか?」などと冷やかされる始末だった。

普段は割りと硬派で口数の少ない洸一がそんな冷やかしにも進んで乗ってくるものだから

皆は余程いいことがあったのだろうと、午後の給湯室はそんな噂で持ちきりになっていた。

大げさなところ、結婚が決まったらしいとまで噂がいってしまう程であった。



逸る気持ちを一生懸命抑えながら会社を後にすると画廊近くの百貨店で化粧室にまで入って

身だしなみをチェックし、洸一はゆっくりとした足取りで一歩一歩を踏みしめるように画廊までの

短い距離を歩いた。連休を前に夕闇に包まれた銀座の街は一際賑やかさを増していた。

普段はそんな雑踏を好まなかったがそれさえも心地よく感じられる程だった。

深呼吸をしてわざと落ち着いた感じで画廊の扉を開けた。そこには珍しいヘーゼル色の瞳が印象的な

長身の男性が先日の画商の紳士と向き合って腰掛け、何か話していた。



「あっ、!冬崎様!ようこそおいで下さいました。お忙しいところをどうも。」

そう言って丁寧に挨拶すると側にいた長身の男性を紹介された。

彼こそが作家の如月絢葉その人だった。

絢葉はすっくと立ち上がって挨拶するとにこやかに御礼を述べてきた。

「この度はどうも、私の作品をお気に入っていただいたようで。たいへん光栄です。」

穏やかなハスキーボイスだった。

立ち上がると身長は洸一よりも若干低めだったが、すらりとした長身で

何より中世の城から抜け出てきたような雰囲気の美男子だった。

こんな人がその辺を歩いていたらおよそ画家というよりはモデルといった感じである。

光の加減なのか、薄緑色に透けるような肌をしてヘーゼル色の大きな瞳は美しいという以外に

形容し難かった。

それでも洸一にはまだぴんと来ないものがあった。どんな人が描いたのだろうなどと思ったことも

なかったせいか、こうして紹介されても何となく絵と結びつかない感じがしてしばし不思議な感じが

していたのだった。

そんなことよりも自分が一番望んでいたことは、、、



そう、あの絵の中の少年を探してきょろきょろと辺りを見回した。そんな洸一の視線に気付く様子もなく、

画商は席を立つと洸一に椅子を勧めてお茶を持ってきた。

「ねっ、申し上げた通りのお若いお客様でしょう?」

と、今度は絢葉に向かって先日と逆のことを言ってはうれしそうに話している。

先日絵を購入した時には盛んに若い作家だからと説明されたのを思い出し、

洸一はふっと可笑しくなってしまった。

くすくすと笑う様子に2人は不思議そうな顔をして洸一を見た。

何だか一瞬にして雰囲気が和んだような気がして楽しい気分になったところで

一番気になっていることを尋ねてみることにした。



「そういえば今日はモデルさんはいらっしゃらないんですか?」

それでもやはり意識がとれないせいか、わざと社交辞令的に言ってみせた。内心はどきどきと

胸が高まって仕方なかったがそんなことを初対面の絢葉に悟られるのはみっともないと思ったのか

そんなふうに聞いたのだった。

「え、、?ああ、先日そうお伺いしたものですから。よく先生がモデルの方を連れて来られるって。」

不思議そうな絢葉の様子に、画商を振り返ると洸一は慌てて説明を足した。

絢葉はようやく言われていることがわかったらしくにっこりと微笑むと穏やかなハスキーボイスが

返事をした。

「ええ、今日はちょっと来られなかったんですよ。たまに付いて来ることもあるんですけどね。」

洸一はがっかりしたが、そんな様子はなるべく見せないようににっこりと微笑むと

「それは残念でした。」

と、あくまでも儀礼的に言った。

しばらくは世間話に花が咲いてそろそろ店を閉める時分になった頃、とっさに思いついたことが

口をついて飛び出していた。




「でも絵を描ける人ってすごいですよね、一度描いてるとこなんか見てみたいなあ。」



今日会ったらもう次は何時絢葉に会えるかわからない、とっさに思いついたのは本能だったのか

そんなことを口走った。次は何時画廊に来るのか、なんてそうそうしつこくは聞けないものだ、

画商だって変に思うだろう、などと考えたらそう言ったことは正しかったように感じられた。

洸一のそんな言葉が功を奏したのか、絢葉は願った以上のことを言ってきた。

これにはさすがに洸一も驚いたが何と次の休みにスケッチを取るのでよかったら見にきませんか?と

誘われたのだった。

そんな幸運、願ってもないことだが、いや願った以上のことだけれど、、、

「いやしかし、お邪魔になりませんかね?」

そう尋ねると絢葉はにっこりとしながら

「とんでもありません、丁度同い年くらいですし友達感覚で来て頂けたらうれしいですよ。」

と微笑んで。

「それじゃ、連休にお待ちしてますから・・あ、これ僕の住所です。」

絢葉は名刺を差し出して。

連休前の、もううっすらと闇が降りた銀座の街を踊るように歩いて帰った。



そんなふうにして降って湧いたような幸運に連休までの洸一はやはり昇天気分で仕事にも精を出した。

そんな様子に社内では「彼女でもできたかやっぱり結婚でもするのか」といった噂が

相変わらず飛び交っているのだった。