憂いのとき
それからしばらく経ってようやくとスケッチが終わったらしく絢葉はふうっと深い溜息をつくと

広いリビングのソファーにどっさりと腰を下ろした。

気に入りの煙草を手に取ると待たせてあった洸一を振り返ってにっこりと微笑んだ。

「やあ、お待たせしてしまいましたね。」

あまりの衝撃にとっさに言葉の出てこない洸一に絢葉は気を使ったように話し掛けた。

「すみません、退屈でしたか?」

そう言われてやっと我に返ったように洸一は顔をあげた。

「え?ああ、いいえ、何でもありません、、、」

どきまぎとして答えになっていない洸一の様子にふっと微笑むと絢葉はお茶の用意をしに

キッチンの方へ向かった。

絢葉の後ろ姿を見送ってふと振り返った視線の先に木蓮の姿が飛び込んできて洸一は

はっとなった。

陶器のような白い肌が未だそのままにさらされてその瞳は空を見つめたままぼうっとしている。

洸一はしばしその様子に見入ってしまっていた。


木蓮は何をするわけでもなく只ぼうっと椅子に腰掛けて、先程絢葉に作られたポーズこそ崩して

いるものの視線は定まらずまるで人形のようであった。それは先程ここに来た時に垣間見た子供の

ような無邪気な印象からすると全く想像のつかないような別人のもので、このまま絢葉が戻って

来なかったならばふいとその白い肌に手を伸ばしてしまいそうな錯覚に駆られた。

しばらくはぼうっと視線も動かせなくて・・・

そんな様子にキッチンから戻って来た絢葉が洸一にお茶を勧めながら声を掛けた。

「おい蓮、いつまでそんな格好してるんだ?早く服を着なさい。冬崎さんに失礼だろう?」

そう言われてやっとのこと木蓮はシャツのボタンを留めるとすっくと立ち上がった。

「どこへ行くんだ、蓮っ。」

洸一に何の挨拶もせずにリビングを出て行こうとした木蓮をたしなめるように呼び止めると、

きっ、とした視線を投げつけながらひと言、

「トイレ」

とだけ言ってすぐにリビングを出て行ってしまった。

「まったく、愛想のない子だ。すみませんね。」

絢葉は洸一を気使うと持ってきた紅茶のセットをテーブルに置いてソファーに腰を下ろした。。

しばらく絵の話や洸一の仕事の話などで穏やかな会話が続けられたがいつまでたっても戻って

来ない木蓮を心配して洸一がそわそわとリビングの入り口に目をやると絢葉もその様子に

気付いたのか申し訳なさそうにしながら

「ちょっと様子を見てきます。」

と言って席を立った。



一人になった広いリビングで洸一は先程からの光景が脳裏に蘇っては心臓をつかまれるような

息苦しい感覚に襲われるのを感じていた。それらを振り払うように頭を振ると目の前に出された

ティーカップにお代わりの紅茶を自分で注いで一口すすった。



そんなことをしながら出て行った2人を待っていたのだが。

絢葉がリビングを出て行ってからもう5分は経とうというのに一向に戻ってくる気配のない様子に

洸一は席を立つと自然と足が化粧室の方へ向かってしまっていた。

どこへ行くんだ、、、

トイレ

そんな短い会話が頭に木魂して何気に向かったドア越しに聞こえた声が洸一の足をひとたび止めた。



「我がままもいい加減にしなさい。どうしてお前はそうなんだ、ほんの少しがどうして待てない?」

絢葉のハスキーボイスが更にそのトーンを押さえるようにして発せられたのが聞こえて、、、

洸一は気になってドアを少し開けてみて又してもその場に硬直してしまった。



「いや、、嫌だ絢、、、待てないよ、、、もう待てない、、、」

そこには絢葉に縋りつく木蓮の細い腕が震えていた。

「そんなことを言ってないでお前もこっちに来なさい。折角お前のモデルの絵を気に入ってくれたと

いうのに。わざわざ訪ねてくれたんだよ、さあ一緒にリビングへ戻ってお前も話の仲間に入るんだ。」

一生懸命たしなめるように絢葉は言った。

「嫌っ!絢、お願い、、、だってもう耐えられないよ、、、」

そう言ってすすり泣くように絢葉にしがみ付くと木蓮は洸一にとって又しても信じ難いことを言った。

「キスして、ねえ絢、、キスしてくれたらリビングに行く。行ってちゃんと話しの仲間に入るよ、

だからお願い、今すぐキスしてくれよ、、、」

絢葉の広い背中が大きな溜息で揺れた瞬間、

「蓮、いい加減にしろっ」

そう言って縋りつく細い腕を振り払った。

洸一は慌ててリビングのソファーまで戻ると何事もなかったかのように腰掛けて

近付いて来る絢葉の気配に深呼吸をすると何とか落ち着いた振りをした。

がちゃりと、ドアが開いて、、、



絢葉は苦笑いをしながら戻って来た。

「すみません、どうもあの子は人見知りでしてね。あの歳になってもまだ子供みたいなところが

抜けなくって、、、」

まさか自分に聞かれていたなどとは思ってもいない絢葉の言葉に洸一は何と返事してよいか

少々困惑しながらも、かといってすぐに帰ってしまっては逆に気を使わせてもいけないと思い、

それから30分位して絢葉のマンションを後にした。

あの後2人がどうなったのかと少々重たい気持ちだったが、洒落たエントランスを出ようとした時に

後方から響いてくる激しい足音に洸一は振り返った。



「あっ、、、!木蓮君、、?」



自分の脇を夢中で走り過ぎて行った木蓮の瞳がひとたび洸一を捉える。

その瞳に洸一は はっとなって瞬間動けなくなってしまった。

木蓮の大きな瞳は真っ赤に潤んでいて、恐らく泣いて飛び出して来たのだろう、きっ、と洸一を

睨みつけると一目散にその場を走り去って行った。